ある記憶
ある記憶
1
「じゃあまた。元気でね。」
彼はそう言って少し困ったような笑みを浮かべて、手を振った。
彼女はその笑顔にほんの少しだけ怒りを覚えた。
(この人はいつもそうなのよね)
トレンチコートのポケットに無造作に左手を突っ込むとショルダーバッグを肩にかけ直した。
久しぶりの恋だった。
心から本気で好きになった人だった。
彼女は溜息を吐いて、空を見上げた。
(いつもの私は何処かな)
デートでは優しくしてくれる。
彼と居るといつも楽しいはずなのに彼の心の中が見えてこない。
好きなのに 好きだから、その手を握れない。
もどかしくて、寂しくて、でも後一歩が踏み込めない。
たった一言も言えない自分自身が情けなかった。
2
二人の出会いは必然だったのだろうか。
何気なく覗いたSNSの先に居た、高校の先輩だった彼。
会ったこともないのに何故か気になって、何気なく送ったメッセージ。
それが全ての始まりだった。
初めて会ったあの日。
背の高い彼の笑顔が忘れられなかった。
「付き合ってみようか」
その一言にあの時舞い上がったりしてみたのだろうか。
彼女は虚しさと失望に溜息を付いた。
あんなにも好きだと思ったのは上手くいかない仕事からの逃げだったんじゃなかったのか。そんな私だったから彼から向き合う事からも逃げたのじゃないか。
そんな事を思いながら小石を蹴ると、小石は軽い音をたてながら転がった。
まるで今の私じゃないか。
そんな事を思いながら彼女は泣いた。まるで子供みたいに。
もう2度と会う事のない彼。
どうしてあんな人を好きになったのだろう、と。
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